会長の神奈川紹介

花言葉[華のある人生]
じめじめの季節に気分を高揚させる、あでやかなオレンジ

6月30日(土)自宅に近い白幡神社に於いて
昔からの慣習も現代化の波におされて、今では残念ながら形骸化しつつある

  • 半夏生(はんげしょう)
    畠山重忠念持仏が本尊の金沢区にある白山東光禅寺にて

江戸末期に勝海舟が設計し、伊予松山藩が築造し1860年完成。
実戦には使用されたことはなく、外国の貴賓船が入港時に祝砲を上げていた。
実際は星形の形状で、この形の台場は「五稜郭」の台場など国内に三例しかない貴重な遺構である。
現在は当時の石垣の一部が残されているだけで、周辺の再開発も進んでおり、いかに保全するか検討が重ねられている。

 地勢 横浜市神奈川区神奈川1−17−3

所要があって京都に宿泊した際に、運よく建仁寺の塔頭の両足院で半夏生(はんげしょう)(どくだみ科)の白い葉に巡り合うことができた。
葉を白くすることで虫を誘い受粉を促し、時期が過ぎると元の緑に戻ると聞き感動させられた。最盛期には池の周りが白い葉で覆われるとのこと。

東京美術学校(現在の東京芸術大学)の設立に貢献し、その後、日本美術院を創設した岡倉天心は1863年2月14日現在の横浜開港記念会館付近で生まれる。(本名は岡倉覚三)
大正2年には、若い画家たちの支援のために原富太郎(三渓)とともに「観山会」を組織した。
1878年に来日したフェノロサの助手として日本各地の古寺の仏像を廃仏毀釈から救った。法隆寺夢殿の秘仏・救世観音を開扉。
フエノロサが、薬師寺の東塔を「凍れる音楽」と評したとの言い伝えがあるのは周知の通りである。


役員会の帰路、ふと寄り道をした。
京都の真言宗智山派智積院は、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院を束ねる総本山で、檀信徒は30万人にのぼる。
3枚の写真は智積院境内にて撮影、庭園は利久好みの名称庭園として知られる。
多少色ずいた紅葉を期待したが、作務中の修行僧に聞くと11月20日以降とのこと、再訪を楽しみにしたい。
余談になるが、隣接する秀吉の正室淀殿の建立した養源院も紅葉の名所。


  • 中国原産
    ミソハギ科の落葉高木
    鎌倉の本興寺が名所
    夏の代表花でサルスベリと読ませる

  • 鹿の子は生後2年くらいの間、赤みがかったくり色の体に白い斑点が多くみられる
    鹿の子は夏の季語

  • 弥生時代以前のハスの実を大賀一郎博士が1952年に開花させた。
    別名大賀ハスとしても知られている



米国人ウイリアム・クラーク・イーストレイクが1865年(慶応元)9月横浜の居留地で歯科診療所を開設。
日本人歯科医師を育成に貢献した。
右のレリーフの人物は、わが国の歯科診療の発展に貢献したセント・ジョージ・エリオットとハラック・マーソン・パーキンス。
碑は中区相生町6丁目 神奈川県歯科保険総合センター前に神奈川県歯科医師会創立60周年を記念して設置された。



  • 倒木から7年 原木から蘖
    (ひこばえ)が順調に成長。



横浜三塔の一つ「キングの塔」と呼ばれている本庁舎は昭和3年に建てられ平成8年に国の有形文化財として登録され、知事が執務する現役庁舎としては、大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いもの。 8月14日〜16日に内部公開、16日の19時からデジタル掛け軸として庁舎側面がライトアップされた。



ヘボンは宣教師、ヘボン式ローマ字の創始者、医師の肩書の持ち主で、明治学院大学を創設。初代総理に就任。安政6年9月22日に横浜に到着し横浜市神奈川区幸ヶ谷に神奈川診療所を設けて、約半年、医療活動を行った。評判を聞きつけ、尊王攘夷派に襲撃されるのを恐れ、閉鎖された。
診療費は取らず入院患者も中にはいたそうである。
1867年には壊疽を患っていた歌舞伎俳優の澤村田之助の左足の切断手術に成功。
専門が眼科であることを考慮すると足の切断は見事であると[横浜医療事始め]の著者 横浜市立大学医学博士の荒井保男先生も著書の中で語っている。 荒井保男先生は90歳を超えても、関根の自宅近くの開業医の名誉院長として現役で活躍されています。

ヘボン博士は1911年、明治44年故郷のアメリカで96歳で病没。

写真は当時診療所を開設していた神奈川区幸ヶ谷にある曹洞宗「宗興寺」にある記念碑。
記念碑の文字は1963〜1978年まで横浜市長を4期務め、日本社会党党首も歴任経験の飛島田一男氏の書による。

※写真撮影 平成25年6月23日



アジサイの学名(Hydrangea Hortensia Otaksa)のOtaksaは、日本近代医学の礎を築いたオランダ人医学者(実はドイツ人)シーボルトの長崎での日本人妻である「お滝さん」に由来する。




安政6年、横浜開港とともに外国人居留地が埋め立てられ、欧米人とともに中国人貿易商も来住し居留地の一角に関帝廟、中華会館、中華学校が建てられ中華街の原型となる。その当時は雑貨、衣料、食料品店が大半で中華料理店は少なかった。
昭和30年まで地元では「南京町」と親しみを持って呼ばれていたが、大通りの入口に楼門がたてられ「中華街」と書かれてから、現在の呼び名となっている。現在は500軒以上の店舗がひしめき、東アジア最大の規模を誇っている。

平成16年、みなとみらい線が開業して東京方面からのアクセスがより改善された。

空襲前の大通り風景     均昌閣様 所蔵



  • 平日にも係わらず大通りはこの人出

  • 平日の市場通り

  • 商売の神、関羽を祭る関帝廟

  • 平成18年開廟。台南市大天后宮より分霊された。横浜媽祖廟

※媽祖は北宋時代に実在した人物で、航海の安全、自然災害から人々を護る女神として
大陸や台湾や華僑が済む世界各地で信仰されている。


山下公園は関東大震災(大正12年)の瓦礫を埋めた立てて、昭和5年開園。
市民の憩いの場、デートスポット、として親しまれている。
又、震災時に受けた恩の返礼として横浜在住のインド商組合から水飲み場の寄贈を昭和14年に受け、イスラム風の外観に特徴があり「インド水塔」として親しまれており、つい先日NHKの番組でも紹介された。

  • 山下公園

  • イスラム風外観の
    インド水塔


安政元年(1854)に締結された日米和親条約は、別名神奈川条約とも呼ばれペリー提督神奈川上陸の図は、艦隊随行画家のハイネによる石版画が原画となる。
ペリー提督横浜上陸の地点が現在の横浜開港資料館のある場所で右隅に描かれている大木(玉楠の木)が現在も資料館の中庭で、成長している。

  • 玉楠の木
    大震災、空襲に耐え開港以来の歴史を見つめてきた。

  • 横浜開港資料館
    1972年まで英国領事館だった

  • 隣接する横浜海岸教会
    1875年建設の日本最古のプロテスタント教会


木版画に描かれている旅籠(さくらや)は現在も料亭「田中屋」として営業しており、
かつては高杉晋作、ハリスも訪れ坂本竜馬の妻<おりょう>も明治7年から勝海舟の紹介で働き、英語が堪能だった為に外国人の接待にも重宝がられた。

  • 現在の田中屋

  • 現在の台町の風景

  • 安藤広重 東海道五十三次
    神奈川 台之景


昨年3月10日に倒伏したご神木の大銀杏の生命回復力は、疲弊する日本人に勇気を与えてくれる。平成23年5月4日撮影

  • 根元の4Mから切断
    移植された原木から新芽が

  • 残された根元からも孫生えが芽吹く

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